浮き草

私は小学校の時から大工になるという思いを文集に残していたが、かっこいい車を見るたびに車に魅かれるようになった、中学卒業後の進路は整備工になりたいと親父に伝えた、さして反対はされなかったけれど、当時の自動車整備士の学校は競争率が高かった、確か8倍ぐらいの競争率、これは素直に無理だと諦め、たまたま建築家は3.5倍ぐらい,大工はもともと嫌ではなかったから受けてみよう、そんな安易な気持ちで受けた、学科と面接と簡単な実地試験が行われた、面接や実地試験は全くダメと思ったそれでも合格通知が来た(笑。

それから建築課に入り大工を志すようになった、卒業と同時に近くの大工親方に弟子入りし2年経った頃帰宅途中で、飲酒運転の車に激突され、骨折や血まみれで意識不明の状態、この時親父は私の生存は諦めていたと後から聞いた、目を覚ましたのは病院のベットの上だった、運よく一命を取り止め11ヶ月後に退院、そしてリハビリをして2年目に復帰する、完治にはならないが何とか大工仕事を続けることが出来るようになった、それから独立を考え必要な資格試験を取り、27歳の時に建設業と設計事務所の業者登録を済ませた。元請けはなく下請けや孫請けばかりであった、ハウスメーカーの孫請けも2~3年ぐらいした、利益はあったが御施主様の顔と名前は憶えていない、どうせ造るのであれば住まい手の顔が残る、やりがいや思い出のある木造住宅1本に絞った。

だんだん好きになってきた木造住宅、この素晴らしい手刻み・手加工の住まいづくりを後世に残すには、ビジョンとして後継者育成は欠かせない、どうせ造るのであれば感動する住まいづくり『気持ちを込めた木持ちの良い家』これしかないと思い、それをやるには何が必要かを考えた結果、地産の自然材料で高性能な健康住宅・安心・安全を取り入れた無垢の住まい・超長寿命のすまいを安く造る等、住まい手側に立った考えと作りて側に立った考え、誰でも出来ない遣り甲斐があるものを造ろう等を目標・目的として今日まで来た、71才になったが全てに於いて改革は山ほどある、限りない究極の住まいづくりはまだまだ続く。

自然の恩恵

1970年以降急速に自然資本(空気・水・土地・植物・動物からなる天然資源)は減少してきた。自然の恩恵を正しく使わず、経済的な豊かさだけを追求した結果、自然も人の心も荒れてきた。安定供給の為か無駄な消費が多い、大企業は本当に持続可能な商品を造っているのかわからない。

スーパーの農作物売り場を見てもキズ1つなく同じ大きさの作物がきれいに包装されて並んでいる。2年ほど前から野菜を作っているけど、大小は勿論、形も変形しているし、虫食いのあとはあるものばかり、店頭に並んでいるようなものは1割も出来ない、全くできない物も何種類かあった、それでも野菜作りは楽しい。

化学肥料や農薬は殆ど使っていない、身体に良いものを作ると同時に化学肥料や農薬を使わなければ土壌の豊かさが回復し、生物多様性や保水性、土壌本来の炭素固定能力が回復するからです。

会社の焼却炉から出た木灰(カリ)を肥料に、それを農薬代わりに野菜の葉に薄く振りかける、風が吹いたり、雨にあたるとすぐに落ちるが、まめにやれば夏キャベツでも結構良いものが出来る。鋸くずや鉋屑は発芽したり、乾燥防止に役に立つ、ほどなく微生物が食べ土に返る、廃材が出れば獣の囲いに使う、雨水収集タンクも木製で作った、2年して水漏れが発生したが。(笑い

今までが木材関係ばかりであったが、同じ自然資本であるが、野菜作りは食べ物であるので、誰でも味わうことが出来る。小さな事でも皆が意識してやれば地球環境は変わる、サステナブルな未来は全人類の課題です。

運命・宿命・天命

ある新聞記事の一コマに経営者仲間の人生はどういうものかとの問いにある人は、「人は『宿命に耐え』『運命に戯れ』『使命に生きる』」ある人は「天命に従い、授かった一つの命を大切にして、『運』『ご縁』に感謝して生きる」・・・この言葉にすごく感銘を受けた。

「運命と云うものは自分の力で変えられるけれど、宿命は変えられない、そしてそれを取り巻くものが天命である」と有名な誰かが云っていた。

自分の人生観と云えば、正直運命も宿命もはっきり表現できないのです、『運』ということでも戦国時代や戦争時のように何時どうなるかわからない時代は、確かに『運』が強ければ生き延びる等・・・と思っていた、今の社会は努力さえすればある程度までは実現できる、『運』は10%ぐらいと思っていた、随分前にある社長に経営における『運』の割合を聞いたことがある、その社長は80~90%は『運』と云っていたが、この年になって『運』とか『ご縁』ということを思うようになってきたのです、毎日がむしゃらだったトップの座から降りて、ゆとりが出来たせいか、今あるのは皆のお蔭で決して自分だけの力ではない、ご縁と運があっての事と深く感謝している。

35年前になるか、魅力ある職人集団をつくるため、後継者育成を掲げたとき、そんな馬鹿なことは(今の若者は気が短くて続かない、仮に一人前になっても、賃金の高いところや働く環境の良いところにすぐに行く、恩や義理はない)やめろと随分周りから揶揄や反対されたが、頑固に実行していったが何年たっても思うようにはいかない、まず若者が集まらないし、来ても技術を習得が出来ない、厳しく云えばすぐにやめる、一日しか持たなかった若者もいる、指導が悪いせいもあると思うが、随分入っては出て入った。自分が修得出来たのだから自分のやってきたことを伝授すればと思っていた、何回もチャレンジしてもうこれでだめなら終わりにしようとまで思った、その最後の時に一人の若者が光明の兆しが見え始めた、これは本当に良き『ご縁』であり『運』が良かったと思うようになったのです。『ご縁』・『運』のお蔭で運命は変わる、これからも反省をしながら良い運命を送りたい、それが宿命だと思う。





苦しい時・辛い時

人の一生とは重荷を背追うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えばさして不足はないもの
こころに望み起らば困窮した時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え 勝事ばかり知って 負くる事をしらざれば 害其の身に及ぶ
おのれを責めて人をせむるな 及ばざるは過ぎたるに勝るもの

徳川家康公の遺訓ですが、苦しく辛い時・困った時など何かにつけ頭を過る、40年前新婚当時に夫婦喧嘩をしたときに、困った挙句にこの訓をトイレの壁に貼っておいた(笑い

この明訓のおかげで夫婦げんかも何時の間にか収まっている(笑い

何回も貼るから他界した親父から、何時まで張っておるんか・・・と叱られたこともある(笑い

今喧嘩しても効果(あれから40年)がないから貼らないし、何を云っても負けるから「望み起これば困窮した時を思い出すべし」・・・(笑い

仕事でもなんでも良い事ばかりは続かないが、どうせ造るなら良いものを造ろう、どうせするのであれば真剣にやろう、どうせやるのであれば一番を目指そう・・・と随分云ってきた。苦しい時や辛い時を過ごして今日があるがこの明訓も頭から離れない。

昨年秋のオープン、アルプ総合展示場ではコンセルジュ(御施主様)皆さんのおかげでファンの方が増えてきていますが、毎年恒例の御施主様感謝ディーを行うが、もう2度も出来ない状態、コロナ禍ではいろんなことが思う通りにはいかない、こんな時はこの明訓を思い出す、この訓には随分助けられた、この道の入って55年になるが、この訓のように勝(ブランディングは程遠い)ことはないが、まだ皆で頑張るしかないのです。なんと言おうと時間は止まらないし、時間がたてば大抵の苦しい・辛い事は忘れさせてくれる、すまい手の方も造り手のかたも地球環境・自然環境を考慮した、身体にやさしい住まいの追及を行くが如し 急ぐべからず。



新入社員(大工修行)

職人の世界でも社会人になれば厳しいのは当たり前、ああ厳しい一日が終わって良かった、というような意識のレベルでは絶対に良き棟梁や良き社会人にはならない、「精一杯やってきたからそれでいいんじゃないの」今の若者に充満している言葉です。褒める教育が主流ですが、人によっては褒めたらその子はこれくらいでいいんだって思い込んでしまうことも良くある、叱るにしても現行犯で叱り、直す方法を教え、長い時間叱らないこと、叱る原因は基本を間違ったときが多い、伸びる子は人の言葉を信じてくれる、真っ直ぐ目をそらさないで耳で聞き、頭で聞き、心で聞かないと伸ばない、指導する側も目の前にいる新人を本気で向き合えること、そして本気でその子を運命だと思い、受け止めて預かることです、そうすると必ず成長するのです、指導者より技術も人格も上に行く人は基本的には引き止めない、そうした人は寧ろ独り立ちを勧める、自分で事を起こせば今以上に真剣になる、社会に依り貢献できるからです、きれいごとではなく今まで9名程の棟梁が独立して社会貢献している。どんなに優秀でも己の目先の欲で引き止めたりしない、だからそうならないように指導者(トップ)は常に切磋琢磨を忘れてはならないのです。

新入社員に願うことは怪我をせず技術は勿論の事、知識や情報は会社には豊富にある、会社は利用されるものでなく利用するものといつも言っている、社会に出てからは知恵を付けることが大切です。