投稿者アーカイブ: 藤丸 直行

後継者育成その9

 秋は田んぼの稲の収穫、それが終わりそれから山に行き今度は木を伐採する、そうした農林業営む人も戦後は多かった私も小さい頃から親父に連れられ、よく山の手入れに行った、秋口から伐採された木は木肌が美しく虫が入らず、腐れ難い、この木材を1〜5年寝かせて使用することは当たり前であった、今は残念ながら人手が足りず、いや"後継者が育たず機械にたよらずには入られなくなった次第、だからいつでも伐採して乾燥釜に入れて出荷しているのが現状(一般に言う人口乾燥材/KD材とも言う)、ある日この高温乾燥構造材を刻んでいたら、端っこの10センチぐらいでも鋸を締めて(通常の切り口は開くのが常識)動かなくなったのを見て、「こりゃ〜可笑しいこんなことは初めてこんな材料を使っていたら若いもんが何時か大怪我をする事は目に見えている」…

 強度は関係ないとは言うが、人口乾燥材特に高温乾燥を幾日も行った材料は、鋸引きだけでなく、ノミ切れも悪く、刃こぼれをする、おまけに炭の匂いがして中割れを起す、こうした材料で後継者の育成は出来ない、若者が育ち始めたら今度はそれなり見合った木材を提供しなければならないと思い、良材の仕入れにいろんな森林組合や製材所を廻った、この時大分にはグリーン材(切ったばっかしの生材)ではあるがすばらしい木材が無尽にあることに改めて感じた、目的の自然乾燥をした色艶・匂いの良い構造材は直ぐに手に入る状態ではない、自然乾燥の構造材は年月を有するその為何処も当時は取り組んでいなかった、経営上厳しいが自社で自然乾燥をするほかなかった、彼等のため、住まい手のために何年か分の自然乾燥をはじめた。

 一流の職人に育てるには一流の材料がいる、大分県の海は関サバ・関アジ・臼杵ふぐ・城下カレイといった美味しく新鮮な海の食材、山にはしいたけ・カボス・梅等すばらしい食材がいっぱいあるからこれらを扱う一流の調理人が多く何処にいっても美味しい新鮮な料理が食べられる、おまけに温泉地帯でもあり、一流の旅館やホテルがある様に彼らにも一流のホテルに泊り仲居さんの姿勢や接待などの行動を見て教育の一環としたり、一流の料理を惜しみなく堪能させたりした。

 食べることと飲むことは棟梁でも新入社員でも平等にしている、忘年会や日頃の飲み会でも位階の上下は何もない、ただ美味しいものを戴くことができるのは施主様や協力業者・先輩達のお陰だと言い聞かせている、そうした上下の関係をなくして感謝の気持ちを忘れないようにと言い聞かせた、ところが数年前義母がなくなり初盆を迎えても若い社員は誰一人もお参りに来ない、義母が若い人たちにどれだけ差し入れや愛情を注いだにもかかわらずこのありさまに唖然とした、感謝の気持ちだけで、来るべきところで気がまわらず態度に出ない、ここまで教えなければならないのか…

木の文化の継承・日本文化の継承世の中は随分変わって来た、仏間もないところが多いせめてスペースぐらいはと思うが…それに殆どといっていいほど床の間がない無駄なスペースと思っているのかそれとも神仏は心の中にあるものと思っているのか…大抵の願い事は銀行に行き手を合わせれば解決できる世の中…笑い、儲けの追及は時流に乗らなければならないのかも…一方我が社は人界戦力・非合理的・墨付け手加工で時間が必要又猫も杓子も入社させる…ああああああ~大変smiley

文章を綴るのも大嫌い…娘が私に黙ってイランことをするから余計な事が増えた‥それより早く嫁に行けsmiley

後継者育成その8

 この時期から工業高校新卒者や短期大の新卒者が毎年入ってくる様になってきた、非常に嬉しい限りである又中途採用も採っていた,とにかく来る者は拒まず全員入れた、一番多いときに8名、平均して3名ぐらいかな、棟梁になって卒業した若者が現在まで数名その他途中離職者が25名約半分は何らかの理由で続かなかった、育成指導する私の未熟さも当然あったと思うし今でも育成指導は難しいと思っています、親御さん達に限らず皆当社に入れば技術や精神面・躾その他進歩して当たり前のことと思っていますから進歩しなかった若者達の責任は指導する側が大きい。

 当たり前のことなんですが職人は足跡を残さなければ報酬は頂けない、1万円で1万円の事しか出来なかったら5分で忘れられてしまう、忘れられなくするには、忘れる=頭脳・心ですから心に何時までも残る事をして「ものづくり」をしないといけない、そのものづくりの答えが足跡+「感動」です、心に何時までも・響くもの・心地良く残るものこそ「感動のすまいづくり」 これからは3次元のすまいづくりから4次元のすまいづくりです、

「気持ちをこめた木持ちの良い家」はすまいづくりのテーマです。

 もう一つの問題は木材の調達それも構造材(桁・柱)の節有りの乾燥材が手に入りにくい、「節」があっても無くても「性能や耐久性・構造面の丈夫さ・本来の美しさ」は何も変わらない、しかし「節」があるのと無いのでは金銭的に相当の違いがある、育成指導をする上では失敗はつき物と思っている、高価な木材を使って育成は難しい、もしこれを使ってていたら倒産してたでしょう、私は節があろうと無かろうと1等材と称しています、この1等材の乾燥材が手に入りにくかった、七転八倒繰り返すうちに高温乾燥材という乾燥材料が出てくるようになった、強度面も耐久性も変わらないとは言うけれども、色艶の悪さ・ドーパミンの働きを促す効果のある大切な香りが悪い、結局3年〜4年ぐらい使ってあとは自然乾燥若しくは同等の材料に切り替えた、良い木は沢山大分にはあるが本当にほしい製品にした木材は今でも調達がスムーズに行かないことがある、木材納入だけでも15〜16社の取引がある。

後継者育成その7

 この頃は住宅誌や専門誌を収集しながら沢山の情報集めをしていた、若者達が根付きはじめた彼らに本当の育成とはを考えたらそこにはやはり「愛情」という言葉に繫がった、例えば上棟時の作業を考えたなら当然巾の広い構造材を使った方が歩きやすく、危険度は減るから必然と幅広(通常は105我が社は120)の材料を使用するとか、充填断熱材を入れる時や床下に入って床鳴り(当時は根太と根太の間に充填断熱材を入れてあった)の手直しをする際、暗い床下に電気をつけての作業は断熱材の微粒子が無数に落ちてくるのが分かる、吸ったり身体に着いたり決して良い物ではない、何とか良い断熱材はないか、台風時に雨漏りの手直し強風の中でシートを貼らなければならない危険な作業、瓦やその他の外壁材が仮に飛んでも2次災害の起き難い家、冬寒い・夏暑い・雨のとき工事し難い等、何とかせんといかん、それには外断熱しかないと思い、オリジナルの外断熱工法を行った、断熱材の性能(この当時はEクラスが最高でした)・強度・撥水・経年の変化、正直価格は考えてなかった、価格よりどうしたら彼等の安全性や作業効率に繫がるのかを考えた。

さて武津棟梁の墨付けや刻みは…というと、一年半とは思えないすばらしい出来でした、勘違いが少なく無駄な材料もなく、ただ一本2階の階段上の小さなつなぎ材が短く使えなくなり取り替えただけの記憶がある、思い切った人選に安堵感もあり、個性の違う優秀な若者達が永くこの業界に居座ってほしい思いを強く感じた。

墨付け作業は誰でも簡単に出来ない、この作業の人選は「すまいづくりの核」の部分、安易な墨付けをすれば大きな事故や怪我に繫がる、間違った時点で俊敏な応用が必要になる、経験だけでは出来ない作業、5年いても10年いても全部は任せられない人はいます。

人悶着やギクシャクしていたことは、若い人たちは墨付け作業など核の部分でも今度は自分の番だと思っていたからショックだったらしい、解る気もするが何でも早くやらせて良い人とじっくり時間をかけてしっかり基本を覚えさすほうが後々その人のためになる、後継者育成は一人ひとりのことを考えながら大事に建設に取り組んでいた。

後継者育成その6

 手加工には墨付け作業は不可欠、機械プレカットの何十倍もの時間が掛かるし、前回も書いたが金額も高い、この時期35坪位のすまいで墨付け作業は約16人前後・刻みで26人前後で合わせて約42人も掛かかった苦しい数字、それも深夜まで作業してのこと。

今は墨付けが4.5人〜7人・刻みが12人〜14人で平均18.5人です、ものすごく早く・きれいに出来る様になった、機械プレカットと値段は殆ど同じです、加工時間は追い着くのは到底無理ですが、プレカットよりはるかに構造的には丈夫(プレカットの構造面は熟練工の墨付け・刻みの60パーセントの能力しかない)で見た目もきれいで美しく、なにより生きた強い構造材の架構になるため絶品の作品が出来る。

この時期は私も今日中に家に帰ることは殆どなく、休みなくよくやっていたと思う,病気や怪我をせずに来れた事に何時も感謝している、ある日10時半過ぎ片付けを終えて久ぶりに早く帰ろうと作業場の明かりを消したら何処からともなく「あ〜」という声がした、明りを点けて隅の方に行ってみると武津君がノミ研ぎを1人でせっせと研いでいた、人が帰った跡毎日のように刃物を研いでる姿勢と努力は脳裏に残る、現場廻りをしても彼の仕事ぶりに目が注ぐ、彼は上野高校出て福大を経て一旦企業に就職したが、手づくりの「すまいづくり」の道に何故か入って来た。

初めて面接をした時身体が太り気味で不安があったが、当の本人は早入社したつもりで勝手に皆に大きな声で「武津ですよろしくお願いします」と挨拶をしていた、された社員大工達の方がキョトンとしていたことを思い出す。

彼は社交的で近年稀に見る応用力のある若者でした、その為か皆で指導していても彼だけは聞いていても、もっと良いことがないか常に詮索や試行錯誤しながら自分の気に入った方法を選んでいた(私の時代は見て盗んで覚える、だから覚えるのに時間がかかる今の若者は短気で飽き易い、教えるということは回り道をせずに早く到達する利点がある、どちらでも善し悪しはあるが後者を選んだ)彼だけは指導してもまともに受け入れないから反対の事を言ったりして、「してやったり」…と心で「にか〜っと笑った」懐かしい時期があった、底知れない何かを持っていたことは皆と違っていた、時間を惜しむのでもなく常に考えながらの行動は心打つ物があり、荒削り乍一年半の時に墨付けをさせようと思った、御施主さまに了解(こう言う男ですが、すべての責任は私が見ますので是非…)を得て彼に任せることになったが…。

この後社員間でギクシャクが続く、今まで皆明るく黙々と作業していたが、まさかこのことでギクシャクしていたと思はなかった、気がついたのは数ヶ月経った後でした。

 

後継者の育成その5

 得てして神仏はいたずら好きである、さあ〜これからという最初の組立で、私が支えている柱や横架材の間違いや勘違いが今まで何度も最初からあった、幸か不幸か不思議なことが多かった、話は変わるがある日解体の現場で高さ3mの所から、ひょっとしたことから仰向けの状態で下に落ちた、落ちながら、「もうだめだこれで人生終わった」と思ったが、落ちた瞬間は分厚い布団の上にふわ〜とした感じで、スチール製の足場板の上に落ちた、腰などに何の異状はなくそのまま仕事を続けた大変幸運な出来事もあった、今回の上棟は心配をよそにあれよあれよの間に工事は進捗していった、無事上棟を終えると、今まで味わったことのない無量の感慨と「これからいける」という明かりが見えた、勿論小さな勘違いは数ヶ所あった。 

 チャリンコの阿南美根は最初の大仕事で、すばらしい墨付けや刻みをやってくれた、この現場で味わった自分との葛藤や喜びは一生忘れることがないでしょう、上棟後の美酒を皆と共に心行くまで味わったことは言うまでもない、(当時は週2〜3回皆で飲み事があり、飲みすぎで離婚問題までなった事がある)因みに2度目の墨付け・刻みは奇跡といっても良いぐらい完璧にこなした、今でも誰もが出来たことのない難しい事をやってしまった。

 ふじまるのすまいの構造は殆ど化粧桁や柱材の表しが多く、精密さや緻密性が不可欠、その為に見えがかり部分の構造用金物は全て隠し金物としています、又木材が大きく量も倍使用し、丸太梁・丸柱・太柱があり墨付けや刻みが他社より相当困難、間違いや勘違いがあるのが普通。

 この時期から阿南美根君の容姿や考えが変った、心身共に美しくなって来た、 墨付け作業等を彼にさせると、早く・きれいに間違いなくできるが合理的な作業は一人前の後継者を育む上ではやってはいけない…とは言っても非常に苦しい数値の中、心は揺れていたが、目先の事を考えずに遠い将来を考えよう、第2の阿南を育てる事を心に誓い次なる人選を試みる、人選には当然就業態度や技術・その他を見ながら行った、この人選に想像もしてない人悶着が起きた。