今期から代表取締役を交代した、さして理由はないが社長の大輔に代表を任せることで、社長としての人間性成長を少なからず期待しているのです、当然私は会社に残りデスクワークではなく、運搬や黒子の作業に従事する傍ら会社を見守っていきたい、フジマルファンズの方や御施主様や協力業者の皆さんにはいろいろご支援やご指導を頂き心から感謝して居ります、ここまでこれたのも皆様方のおかげです、この御恩は決して忘れることはありませんし、これからも会社に残り色々なアイデアを駆使しながら『気持ちを込めた木持の良い家』づくりに邁進していきます、皆様には今まで以上にご指導、ご鞭撻頂けたら幸いと思って居ります、社長の大輔も私同様未熟者ではありますが、皆さんで育ててほしいと心より願っています。世間ではコロナ禍で大変な時ですが、こうした中で私たちの自然素材のすまいはコロナウイルスの消滅に大いに効果があります、杉板や無垢の構造材・珪藻土・漆喰の塗り壁は吸着して分解する時間がとても速いと言われています、住まい手の身体に良い、そして自然環境にも大きく貢献しているのです、このことは誰がどんなことを言っても揺るぎない真実なのです。こんな素晴らしい住まいづくりを絶対に絶やしては行けないのです、継承していく価値のある「木の家」です、皆で頑張ります今後ともよろしくお願いいたします。

孫も小学校2年生になり我が家は楽しい生活を過ごしている、当たり前と思えばそれまでですが、孫がいることは本当に楽しいのです、昨年我が社の御施主様が都心近くに嫁いでいる娘さんに子供が出来て、孫の顔見たさに近くに行きたくて大分にある家屋を売り引っ越したとのこと、それ程孫というのはかわいいものです、同感します。会社では今期は2名の新入社員が入社してきた、大工職人・左官職人志望ですが、自ら大工志望の新入社員に技術やツールのイロハを指導している、何年ぶりか刻み乍らの指導、飽きが来ないように一つことに集中させるのではなく、ローカルなことを実習しながらの指導、その中での突出した部分を見つけ、その部分を伸ばせながら波及効果や相乗効果を高め、各指導棟梁等とともに、最終的には6~8年で棟梁になるようなカリキュラムにしていく。手刻み・手加工は、熟練工が行えば遥かにプレカット(全て機械加工)より強度を保つことが出来るのです、100年は確実に長持ちします、時間もコストもかかるが、すまい手の方に心の扉を開いて喜んでもらうには、効率性だけでなく、数字では割り切れない非合理さ、人と人とのふれあい、アナログ的な部分が絶対に必要だと思う、人は理屈では説明できないことを体験したときに、心から感動するのです、我が社はいくら非効率と云われようとも、住まい手の喜びと幸せのためにこれからも『気持ちを込めた木持の良い家』手づくり・手加工のすまいづくりを邁進していく所存です。

古民家をリノベーションするということは大変な労働でもあるがとにかく人出のいる仕事、夏場より冬場を選ぶのも部分解体が多く冬場でも汗をかく、埃まみれの作業が沢山ある、壁を落とし柱だけになることもあるので、仮筋交いをしっかり打っても基礎がないので台風時期は危険、台風による雨仕舞いも心配の種になる、冬場はカビが生えないのでそれ程臭くない・小動物もいないのでやり易い、ただ日が昇るの遅く沈むのが早く、思った以上に作業が進まないこともある、又見えないところで既存の木材が痛んでいたり小さかったり誤算が必ず起きます、大きな既存構造材の取り換えもあるし既存すまいをそのまま嵩上げすることもある、水平や水直等は必ず狂いが生じているがそういう作業は経験のある優秀な職人でなければ臨機応変に出来ないのです。基礎を新設したり新築並みに性能を上げるとなると350~500人は必要になる、新築の2~4倍の人出を有することになる。御施主様から見ればいいものが出来て当たり前なのです、それに感動するものが出来なければ満足しないのです、そのことを社員職人たちは理解してでの古民家リノベーション工事、本当に我が社の技術職人たちは技術や忍耐力それに人間性も素晴らしい人たちです。

お蔭様で怪我無く二人で苦笑いしたこともあった、又ある時は自転車の荷台に当時ハウス栽培で作っていたキンセンカの花を市街地の八百屋まで何回も届けに行ったことがある、最後は「まだあるからもういいよ」と云われそのまま持って帰った、そのことを親父に伝えると花は廃棄された、折角丁寧に育てたものを買い手がなければ仕方がないと悔しい思いがした、この花づくりも先駆者として親父が始めたが直ぐに真似される、結局は3~4年で止めてまた新しいものに挑戦そんな農家だった。がんこで強靭な親父と病身のおふくろは何時もケンカしていたように思うが、老後先におふくろが立てなくなって、その後脳梗塞で親父が倒れて寝たっきりになる、ケンカばかりと思っていたがある日おふくろが車椅子で親父の手を握り「自分が悪いばっかしに介護できない」と悔やんでいた、それが最後の別れになるとは思ってもいなかったようで、それから3年後にはおふくろが逝った、思い出すのは何百㎏もある野菜をリヤカーで行商した後に、美味しい饅頭を売る店の前で「いっぺんでもよいから腹いっぱい食べてみたい」と何度か聞いたことがある、当時妊婦でありお腹が空いているのに我慢して大切なお金(家計は親父が管理)を使わなかった、生まれてくる子供(私)のためにか・・・当時19歳の母親を思うと涙腺が緩む、どちらにしても親孝行は生きている時しかできない、この世に産んでくれた事に心から感謝しているし、たまに般若心経を唱えながら冥福を祈っている昨今です。

私の生まれた地区は農業が大半で主婦が行商して生活の糧を得るという小高い台地にある60戸の集落、行商は昭和35年ごろがピークと思う、親父は志願兵としての戦争体験者、おふくろは近隣地区から17歳で嫁入り19歳の時に私が生まれた、この年には地区で18名も生まれた、前後してかなり多くの人が生まれた時代、母私とも同年で3名が同じ環境で行商をしていた、母親と同年や年上の人を含めると20名ぐらいは行商をしていたと思う、主婦ばかりが朝暗い4時頃に起きてリヤカーで農産物を満載して暗い道の悪い中を、遥か先(8~9km)の市街地まで二日に一回の割合で行商に行く、そして全て売りつくして帰ってくるのがお昼時、私のおふくろも大きなお腹を抱えて、それも19歳という若さで重たいリヤカーを引き行商していたのです、この当時は少なくとも毎日大きなお腹を抱えた妊婦さんが何人も行商していたことになる、本当にこの頃の母親たちは逞しいの一言です、物心ついたころ親父に連れられ坂道を降りつくまで、リヤカーの綱引きを手伝ったことがある、薄暗い懐中電灯の明かりの中、夏はまあよいが冬の寒い朝早く霜や雪があるなしにかかわらず遠くまで引いていく、手拭いで頬被りした母親の姿は忘れられない、中学生になったころ途中まで母親を迎えに行った、自転車の荷台にリヤカーを括り付けそのリヤカーにおふくろを載せて帰る、最初はリヤカーを自転車にきつくくくったために、ハンドルが切れなくて道路脇の田んぼに母親ごと落ちてリヤカーがひっくり返り母親の姿が見えない、…次回へ