孫も2年生になり我が家は楽しい生活を過ごしている、当たり前と思えばそれまでですが、孫がいることは本当に楽しいのです、昨年我が社の御施主様が都心近くに嫁いでいる娘さんに子供が出来て、孫の顔見たさに近くに行きたくて大分にある家屋を売り引っ越したとのこと、それ程孫というのはかわいいものです、同感します。会社では今期は2名の新入社員が入社してきた、大工職人・左官職人志望ですが、自ら大工志望の新入社員に技術やツールのイロハを指導している、何年ぶりか刻み乍らの指導、飽きが来ないように一つことに集中させるのではなく、ローカルなことを実習しながらの指導、その中での突出した部分を見つけ、その部分を伸ばせながら波及効果や相乗効果を高め、各指導棟梁等とともに、最終的には6~8年で棟梁になるようなカリキュラムにしていく。手刻み・手加工は、熟練工が行えば遥かにプレカット(全て機械加工)より強度を保つことが出来るのです、100年は確実に長持ちします、時間もコストもかかるが、すまい手の方に心の扉を開いて喜んでもらうには、効率性だけでなく、数字では割り切れない非合理さ、人と人とのふれあい、アナログ的な部分が絶対に必要だと思う、人は理屈では説明できないことを体験したときに、心から感動するのです、我が社はいくら非効率と云われようとも、住まい手の喜びと幸せのためにこれからも『気持ちを込めた木持の良い家』手づくり・手加工のすまいづくりを邁進していく所存です。

古民家をリノベーションするということは大変な労働でもあるがとにかく人出のいる仕事、夏場より冬場を選ぶのも部分解体が多く冬場でも汗をかく、埃まみれの作業が沢山ある、壁を落とし柱だけになることもあるので、仮筋交いをしっかり打っても基礎がないので台風時期は危険、台風による雨仕舞いも心配の種になる、冬場はカビが生えないのでそれ程臭くない・小動物もいないのでやり易い、ただ日が昇るの遅く沈むのが早く、思った以上に作業が進まないこともある、又見えないところで既存の木材が痛んでいたり小さかったり誤算が必ず起きます、大きな既存構造材の取り換えもあるし既存すまいをそのまま嵩上げすることもある、水平や水直等は必ず狂いが生じているがそういう作業は経験のある優秀な職人でなければ臨機応変に出来ないのです。基礎を新設したり新築並みに性能を上げるとなると350~500人は必要になる、新築の2~4倍の人出を有することになる。御施主様から見ればいいものが出来て当たり前なのです、それに感動するものが出来なければ満足しないのです、そのことを社員職人たちは理解してでの古民家リノベーション工事、本当に我が社の技術職人たちは技術や忍耐力それに人間性も素晴らしい人たちです。

お蔭様で怪我無く二人で苦笑いしたこともあった、又ある時は自転車の荷台に当時ハウス栽培で作っていたキンセンカの花を市街地の八百屋まで何回も届けに行ったことがある、最後は「まだあるからもういいよ」と云われそのまま持って帰った、そのことを親父に伝えると花は廃棄された、折角丁寧に育てたものを買い手がなければ仕方がないと悔しい思いがした、この花づくりも先駆者として親父が始めたが直ぐに真似される、結局は3~4年で止めてまた新しいものに挑戦そんな農家だった。がんこで強靭な親父と病身のおふくろは何時もケンカしていたように思うが、老後先におふくろが立てなくなって、その後脳梗塞で親父が倒れて寝たっきりになる、ケンカばかりと思っていたがある日おふくろが車椅子で親父の手を握り「自分が悪いばっかしに介護できない」と悔やんでいた、それが最後の別れになるとは思ってもいなかったようで、それから3年後にはおふくろが逝った、思い出すのは何百㎏もある野菜をリヤカーで行商した後に、美味しい饅頭を売る店の前で「いっぺんでもよいから腹いっぱい食べてみたい」と何度か聞いたことがある、当時妊婦でありお腹が空いているのに我慢して大切なお金(家計は親父が管理)を使わなかった、生まれてくる子供(私)のためにか・・・当時19歳の母親を思うと涙腺が緩む、どちらにしても親孝行は生きている時しかできない、この世に産んでくれた事に心から感謝しているし、たまに般若心経を唱えながら冥福を祈っている昨今です。

私の生まれた地区は農業が大半で主婦が行商して生活の糧を得るという小高い台地にある60戸の集落、行商は昭和35年ごろがピークと思う、親父は志願兵としての戦争体験者、おふくろは近隣地区から17歳で嫁入り19歳の時に私が生まれた、この年には地区で18名も生まれた、前後してかなり多くの人が生まれた時代、母私とも同年で3名が同じ環境で行商をしていた、母親と同年や年上の人を含めると20名ぐらいは行商をしていたと思う、主婦ばかりが朝暗い4時頃に起きてリヤカーで農産物を満載して暗い道の悪い中を、遥か先(8~9km)の市街地まで二日に一回の割合で行商に行く、そして全て売りつくして帰ってくるのがお昼時、私のおふくろも大きなお腹を抱えて、それも19歳という若さで重たいリヤカーを引き行商していたのです、この当時は少なくとも毎日大きなお腹を抱えた妊婦さんが何人も行商していたことになる、本当にこの頃の母親たちは逞しいの一言です、物心ついたころ親父に連れられ坂道を降りつくまで、リヤカーの綱引きを手伝ったことがある、薄暗い懐中電灯の明かりの中、夏はまあよいが冬の寒い朝早く霜や雪があるなしにかかわらず遠くまで引いていく、手拭いで頬被りした母親の姿は忘れられない、中学生になったころ途中まで母親を迎えに行った、自転車の荷台にリヤカーを括り付けそのリヤカーにおふくろを載せて帰る、最初はリヤカーを自転車にきつくくくったために、ハンドルが切れなくて道路脇の田んぼに母親ごと落ちてリヤカーがひっくり返り母親の姿が見えない、…次回へ

自社の棟梁たちは30年前の後継者育成の厳しさを引き継いできた、暑かろうが寒かろうが汗まみれになって、重たいものを持ったり・木埃にまみれながら、時には汚い作業もある中、朝から夜遅くまで(9時~10時は当たり前、日付を越すこともしょっちゅうあった)危険を度返ししてとにかくがむしゃらにやろう、周囲の人達から注目されるように、そしてどうせ創るのであれば、手づくり・手加工の『気持ちを込めた木持ちの良い家』づくりを目標に掲げたのです、泣いたり・叫んだりして労賃の安い中、多くの若者が途中で辞めたり・辞めたくなったり、辞めたいものに基本的には引き止めはしないが、辞めたいと言ってきた人は身体から生気がなくなっている人が殆ど、自分の顔を鏡に照らせて、「こういう状態だから何を言ってもダメだから、Ⅰ週間でもⅠか月でも体調の戻るまで休んでいい、生気が戻ったら話を聞く、しかし出てくるときには勇気がいるぞ…、そのことを忘れずに」・・・今の棟梁たちの中にはこの時期を立ち直って再び苦しい修行に励み、技術と人間力を高めてきた者も多い、勿論2級建築士や一級技能士の国家試験もクリアしているのです。今思えばあの頃は福利厚生面も充実していない中、最低の労賃でおまけに残業手当なしでよくついてきてくれた、一般の人から見れば信じられないと思うでしょうが、ある日会議が終えた後、夜10時頃一人で現場に出て階段掛の作業をしていたら、若者たち5~6人が訪ねてきて、廻り階段掛を見たいとのこと…、教えながら夜中の1時過ぎに終えたように彼らはやる気満々でした、又ある時は見学会に間に合わせるために、檜風呂を夜中の12時過ぎまで製作していたこともある、近隣の人から「今何時と思っているん」・・・と云われたけどもう少しで終わります、何とか我慢してくださいとお願いして作業を続けたこともあった、この当時近隣の人たちには頭が上がらない、逆に応援をしてくれた感謝の気持ちでいっぱいでした、今の山崎棟梁は作業場の近くに住んでいたのですが通りがかりに、朝3時ころまで作業場に電気が付いて人がいる、何をしているのかと思ったそうです、逆に「あんたはその時間何しよったん」・・・と思ったが(笑い、とにかくいいものをを造る為にがむしゃらに働いてきた、どうせ創るのであれば何処にも負けないいいものを造ろう、その考えは今も揺るぎない。後継育成から早30年が経つ、この道に入って丁度今年で50年を迎えたが、いまだ後継者育成はビジョンとしている、17名の棟梁が育ち独立した者もいるが、残って共に県1番を目指して努力している者も当然います、1番の喜びはやはり皆が大きな怪我がなく健康で来られたことです、今自然環境が問われる中、本物の大工技術者が一人でも育ち環境にやさしい住まいづくりを継承してくれたらと願って止まない。