カテゴリーアーカイブ: ちょこちょこ独り言

新春

 あけましておめでとうございます。今年も若い社員たち共々よろしくお願い致します。

昨年の下半期は倒れた父親の事で背一杯でしたが、奇跡的に快方に向かっています、年を重ねるとリハビリも大変とは思いますが、子としてできるだけの事をしてあげ、家のほうも守っていかなければと思っています、そして大事な仕事も当然こなさなければならない、今天が乗り越えるための試練を与えてくれた・・・そう思いながら今年も真剣に努力をするつもりです。

 昨年は本当に怪我がなく1年が終えました、受注面では上半期が悪く下半期になり住まい手の方達より紹介が一気に増えました、それは本当に心余るもので感謝の気持ちでいっぱいで責任をより以上感じます。

 自然素材ぐらい難しい建築材料はありません、一本としてまったく同じ材料がないからです、それと同時に乾燥材といっても3〜5年も自然乾燥していても、全てバラバラです、そうした材料を棟梁たちが適材適所に使って行くのです、当然年期の入った人や真剣になって取り組む人たちだけしかそれはできません、長持ちする価値のあるすまいはそうした努力の結晶と思っています、我が社は全国でも数少ない手づくり・手加工の出来る優秀な職人集団を築き上げたく一所懸命真剣に頑張っています、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

この道47年の終わりに

 今から47年前、適職を模索するというより、何がしたいどんな職業に就きたいとか言う理性も乏しく、家庭の事情や両親の考えのほうが強いものがあってこの道に入ってきたように思う。

 3人兄弟の長男に生まれ下の二人は家で祖母が子守し、長男のわたしは寒さ暑さ関係なく田畑に連れていかれ、一所懸命働く両親の後ろ姿を見て育った、紐でくくられ動けなかったために退屈で夏は苦にならなかったが、冬は流石に寒く畑の傍らは霜柱でいっぱい、早く帰りたかった思いがある、こんな日々が当たり前で小学校〜中学校の間は、冬は集団でかまどや風呂の焚き木をナタで切ったりしてそれを竹の縄でくくって持って帰る、夏は陽が登る前に家畜の餌を鎌で刈りに行くそれから登校していた、刃物を使ったりしていたので怪我や傷はショッチュウあった、そのため左手にはいまでも無数の傷跡が残っている、中学は農繁休暇もありそれを親は期待していたので背一杯働いた、早く社会人になり両親を楽にさせてあげたいそういう想いがいっぱいだった、当時の長男教育はそうしたものです。

 専門学校を出て個人の大工棟梁に弟子入りするのが当たり前の時代でした、私も同じように弟子入りした、いよいよ修行に出ていくときに両親から言われたことは、時の挨拶と皆に「お世話になります」「お世話になりました」・・・と必ず云うんだぞsmiley、上棟や新築祝いで酒肴品を戴いたとき「ご馳走に成ります・ご馳走様でした」のお礼の言葉は勿論、次の日もまた次の日に逢わなければ何日・何週間・何カ月経っても感謝の気持ちを忘れずに「昨日はご馳走様でした」「先日はご馳走様でした」「何時ぞやご馳走に成りました」ご馳走になった恩を忘れずに仕事で恩を倍返ししていきなさい・・・この事だけは何回も云われた、因みに子供の頃は勉強しろとは一度も言われた記憶がない、今も若い人たちにこの感謝の気持ちをまず言葉で表す様しつこく言っている、やがて感謝の気持ちが心に宿る日が来るでしょう。

機械には出来ない職人一人一人の手作業にしかできない事は沢山ある、特に自然素材を使う住まいづくりは、生かすも殺すも豊かな心を持った職人たちの肩にかかっている。

 47年経った今試行錯誤の上ようやく人が集まり留まってくれるようになり工務店らしくなって来ました、今年も残す後僅か良い家とは「暮らしを楽しむ事の出来る生きた住まい」、この想いをみんなで共鳴しあい来年は今年以上に心を磨きたい。     感謝

研修旅行

 10年ほど前に我が社のイタリア研修旅行に行った折に、見るものすべてが感動の連続で必ず又行きたい、そして今度は南イタリア(前回はベネチア・ローマ周辺)特にポンペイの遺跡をじっくり観たい、その思いで皆を今年は連れて行くと約束していたが、予期せぬ出来事(両親の入院)が起き、我が家族は行けなくなった、社員たちは楽しみにしていたのでそのまま計画通り実行した、後継者育成の一環で感性教育は海外に行くのが一番良いように思う、特に歴史ある国は心を引きつけられる事が多い、今回研修旅行のレポート(社員たち)を目を通すと如何に感動したかが分かる、殆どが何ページにぎっしり書かれているし又ある物は残った我々の事を案じてくれたり、一人一人が感謝の気持ちと感動を同時に綴っていた、今年の上半期はプランや事情で先送りになり、着工戸数が少なく売上が落ちて、台所が厳しい中でしたが若者たちの将来を考えれば、今回行かせてよかった。

 ポンペイ遺跡の写真を沢山見せられ、広大な当時の驚く素晴らしい文明の数々又ヴェスヴィオ火山噴火による甚大な被害・日本では見られない南イタリアの景観、有名な青の洞窟はこの時期10%の確率で行けるらしいが、海が荒れて行けなかったと聞いた、日本人の観光客がほとんど行かないところでガイドさんの速足での案内やバスで狭い絶壁の中での走行、酔いや怖さ、道中のハプニングや食事の様子、機内サービス、長時間飛行機の中での体験等さまざまな思いや感動に酔いしれた研修旅行であったと聞いて、行かせて良かったと心から喜んでいる次第です。

親父

 あれは9月28日の日曜日午後8時15分であった、虫の知らせか夜9時より早く帰った記憶がない中、その日に限って早く帰った、先に上がった女房が慌てて「じいちゃんが倒せている」と言いに来た、見ると父親が右上目使いにして倒れている、「ワアーヤッチャッター」そう胸の中で思った、元々血圧が高く掛かりつけの医師から薬を戴いていたのだったが、1ヶ月前からどうも飲んだ形跡がなく、医師から診察に来てないといわれていたのを思い出した、眼は見開き身体は震えて、もがいたあとが畳や襖にくっきり残っていた見ると晩酌の途中であった、刺身を半分以上食べていたから、時間からして3.5時間以上は経過していたように思った、この間ずいぶん苦しかったであろう、もう少し早く帰っていればと、そう思いながら血圧と脈を取った、血圧は確か260以上で脈は途切れなくしっかり打っていたので、救急車に来てもらった、正直に言えばこのまま息を引き取れば好きな自分の家の畳で死なせてやりたかった、90を過ぎ死ぬときは「家で死にたい・葬式は何処でやってもらいたい」そういう会話をしてきたからその言葉が頭を過ぎった。

 この年老いた父親にせめて自分が造っている、自然素材で外断熱の素晴らしい性能のいい暖かい家に住ませたいがために増築工事を完成したばかり、最初は絶対に今の部屋から動かないという、困ったものだと思いながらある日女房や妹から、強い口調で会話を交わす私を見て痴呆の入りかけた父親の顔から笑顔が消えて険しくなっている「もっと優しく云って」、そのように二人から言われ次の朝から「爺さん」から「じいちゃん」と呼ぶように心がけたのではなく、そう呼ぶと心に決めた、程好くその効果もあり険しい顔がゆるみ、増築した部屋に移ってしまった、そしてよっぽど気に入ったのであろう、近隣に吹聴していたことが後から分かった、これが倒れる前の1か月で一寸ではあるが移ってくれた事に喜びを感じ、必ず元気で「退院させる」その思いで毎日朝夕介護している昨今です。

保証

 ラワン合板や構造用針葉樹合板の耐久性に疑問がある、我が家の屋根替え及び増築工事を23年ぶりに行うことになった、当時屋根は屋根用ラワン合板が多かった、23年経った今ラワン合板5層のプライ数ある合板がいとも簡単に5層とも剥げる、つまり接着剤の効果がなくなっているからです、フロアー合板の接着剤切れは20〜35年で切れるが、一定の状態の屋根合板が剥げる原因は瓦下の70度前後の暑さで接着剤の化学反応が破壊されたり風化によるものと思う、耐久性を望むなら合板はあまり信用できない、それに比べて無垢のラス板やタルキは23年経っても新品同様で、新築時と比べて硬くなっているだけで、切断すると匂いはぷんぷんする、本当に無垢材はどれだけ耐久性があるか分からない、1500年の法隆寺があるのが当然のようです、針葉樹合板を貼れば何につれ10〜15年の保証はつきますが、30年以上の保証は聞いたことがない、今の我が社の工法は特別要望のない限り無垢材100%です。今保証書に構造材の劣化に50年保証と地震倒壊30年保証の追加項目を入れています。

 先日の朝礼時に立っていられない地震が来ても、我が社の住まいが倒壊しないと思っている者は手を上げて・・・というと流石に棟梁各は全員手を上げた、上げなかった者はまだ入社間もない人たちばかりだった、手を上げるという動作は本当に自信があるから上げるのです、逆に倒壊する人上げて・・・といえば解からなくても全員手を上げないでしょう、この場合手を上げる事に意義があるのです。