19歳その2

お蔭様で怪我無く二人で苦笑いしたこともあった、又ある時は自転車の荷台に当時ハウス栽培で作っていたキンセンカの花を市街地の八百屋まで何回も届けに行ったことがある、最後は「まだあるからもういいよ」と云われそのまま持って帰った、そのことを親父に伝えると花は廃棄された、折角丁寧に育てたものを買い手がなければ仕方がないと悔しい思いがした、この花づくりも先駆者として親父が始めたが直ぐに真似される、結局は3~4年で止めてまた新しいものに挑戦そんな農家だった。がんこで強靭な親父と病身のおふくろは何時もケンカしていたように思うが、老後先におふくろが立てなくなって、その後脳梗塞で親父が倒れて寝たっきりになる、ケンカばかりと思っていたがある日おふくろが車椅子で親父の手を握り「自分が悪いばっかしに介護できない」と悔やんでいた、それが最後の別れになるとは思ってもいなかったようで、それから3年後にはおふくろが逝った、思い出すのは何百㎏もある野菜をリヤカーで行商した後に、美味しい饅頭を売る店の前で「いっぺんでもよいから腹いっぱい食べてみたい」と何度か聞いたことがある、当時妊婦でありお腹が空いているのに我慢して大切なお金(家計は親父が管理)を使わなかった、生まれてくる子供(私)のためにか・・・当時19歳の母親を思うと涙腺が緩む、どちらにしても親孝行は生きている時しかできない、この世に産んでくれた事に心から感謝しているし、たまに般若心経を唱えながら冥福を祈っている昨今です。

シェアする!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です