この道47年の終わりに

 今から47年前、適職を模索するというより、何がしたいどんな職業に就きたいとか言う理性も乏しく、家庭の事情や両親の考えのほうが強いものがあってこの道に入ってきたように思う。

 3人兄弟の長男に生まれ下の二人は家で祖母が子守し、長男のわたしは寒さ暑さ関係なく田畑に連れていかれ、一所懸命働く両親の後ろ姿を見て育った、紐でくくられ動けなかったために退屈で夏は苦にならなかったが、冬は流石に寒く畑の傍らは霜柱でいっぱい、早く帰りたかった思いがある、こんな日々が当たり前で小学校〜中学校の間は、冬は集団でかまどや風呂の焚き木をナタで切ったりしてそれを竹の縄でくくって持って帰る、夏は陽が登る前に家畜の餌を鎌で刈りに行くそれから登校していた、刃物を使ったりしていたので怪我や傷はショッチュウあった、そのため左手にはいまでも無数の傷跡が残っている、中学は農繁休暇もありそれを親は期待していたので背一杯働いた、早く社会人になり両親を楽にさせてあげたいそういう想いがいっぱいだった、当時の長男教育はそうしたものです。

 専門学校を出て個人の大工棟梁に弟子入りするのが当たり前の時代でした、私も同じように弟子入りした、いよいよ修行に出ていくときに両親から言われたことは、時の挨拶と皆に「お世話になります」「お世話になりました」・・・と必ず云うんだぞsmiley、上棟や新築祝いで酒肴品を戴いたとき「ご馳走に成ります・ご馳走様でした」のお礼の言葉は勿論、次の日もまた次の日に逢わなければ何日・何週間・何カ月経っても感謝の気持ちを忘れずに「昨日はご馳走様でした」「先日はご馳走様でした」「何時ぞやご馳走に成りました」ご馳走になった恩を忘れずに仕事で恩を倍返ししていきなさい・・・この事だけは何回も云われた、因みに子供の頃は勉強しろとは一度も言われた記憶がない、今も若い人たちにこの感謝の気持ちをまず言葉で表す様しつこく言っている、やがて感謝の気持ちが心に宿る日が来るでしょう。

機械には出来ない職人一人一人の手作業にしかできない事は沢山ある、特に自然素材を使う住まいづくりは、生かすも殺すも豊かな心を持った職人たちの肩にかかっている。

 47年経った今試行錯誤の上ようやく人が集まり留まってくれるようになり工務店らしくなって来ました、今年も残す後僅か良い家とは「暮らしを楽しむ事の出来る生きた住まい」、この想いをみんなで共鳴しあい来年は今年以上に心を磨きたい。     感謝

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