私の生まれた地区は農業が大半で主婦が行商して生活の糧を得るという小高い台地にある60戸の集落、行商は昭和35年ごろがピークと思う、親父は志願兵としての戦争体験者、おふくろは近隣地区から17歳で嫁入り19歳の時に私が生まれた、この年には地区で18名も生まれた、前後してかなり多くの人が生まれた時代、母私とも同年で3名が同じ環境で行商をしていた、母親と同年や年上の人を含めると20名ぐらいは行商をしていたと思う、主婦ばかりが朝暗い4時頃に起きてリヤカーで農産物を満載して暗い道の悪い中を、遥か先(8~9km)の市街地まで二日に一回の割合で行商に行く、そして全て売りつくして帰ってくるのがお昼時、私のおふくろも大きなお腹を抱えて、それも19歳という若さで重たいリヤカーを引き行商していたのです、この当時は少なくとも毎日大きなお腹を抱えた妊婦さんが何人も行商していたことになる、本当にこの頃の母親たちは逞しいの一言です、物心ついたころ親父に連れられ坂道を降りつくまで、リヤカーの綱引きを手伝ったことがある、薄暗い懐中電灯の明かりの中、夏はまあよいが冬の寒い朝早く霜や雪があるなしにかかわらず遠くまで引いていく、手拭いで頬被りした母親の姿は忘れられない、中学生になったころ途中まで母親を迎えに行った、自転車の荷台にリヤカーを括り付けそのリヤカーにおふくろを載せて帰る、最初はリヤカーを自転車にきつくくくったために、ハンドルが切れなくて道路脇の田んぼに母親ごと落ちてリヤカーがひっくり返り母親の姿が見えない、…次回へ
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